杵築ブランドサイドストーリー#01「杵築みかん」
(杵築市誌(平成17年(2005年)3月発行)より抜粋)
第七編 産業経済
第三章 杵築みかん
第一節 杵築みかんの先覚者
杵築における柑橘類栽培の歴史は古い。文久元年(1861)のころ、日出・杵築両藩の士族屋敷には、文旦(ぶんたん)・夏みかん・橙(だいだい)などが自給用に植えられていたという。また、農家にも柑子(こうじ)・カボス・小蜜柑などが植えられており、当時の農家にとっては、唯一の経済樹であったとされる(『大分県の柑橘』)。
明治27年(1894)に、弓町の石田伯介が、山口県から夏みかんの苗を取り寄せ、一反歩(約10アール)に植えたのが最も古い。石田は、乳牛のホルスタインや山羊の原種をアメリカから輸入するなど、進取の気性に富んだ人であった。
ついで、33年に馬場尾の高嶋卯吉が中ノ原に温州みかん2反2畝と雲上柑1反歩を植えている。高嶋は新潟県の出身。みかんの苗木は、福岡県の伝習館中学校教師時代の教え子・立花伯爵の経営する宮本農園から贈られたものという。高嶋は旧制杵築中学校にも勤め、名講義で知られた。
36年には、高嶋の弟。佐平が開園、43年には町長の矢野直太郎らが開園している。これより先の32年ごろ、既に約五町歩(5ヘクタール)の柑橘園があったというが定かではない。また、38年には八坂の一宮七五三(しめぞう)がネーブルオレンジなどを植えている。
高嶋卯吉と杵築中学校で同僚だった、野々山正虎(愛媛県出身)・本山好太郎(佐賀県出身)・久保万寿吉らも大正2年から3年にかけて、東村年田の原野に柑橘園を開いた。本山の園は後に大分県模範柑橘園に推され、昭和10年には北米への輸出の話が出ている。
高嶋など杵築中学校の教員は、尾張(愛知県)からみかん苗1万本を、1本1銭2厘で共同購入するなど、柑橘の企業的経営に積極的であった。このように地元の中学校の教員が、柑橘栽培の企業的経営の先駆的役割りを果たしたことは、全国的にも珍しい例であり、県内外よりの移住者の先駆けでもある。
大内地区では、大正3年、国東みかんの先駆者といわれた、安岐町の西山錨(いかり)が、茅場の原野1町歩を開いたのが初めである。当時の地価は、1反歩が約20円ぐらいであったという。西山は、城鼻の藤岡洋八にみかん栽培の指導を受けている。
茅場の三楽園主・田辺万智蔵は朝田(大田村)の出身で、錦城区の開業医。愛郷の同志とともに、興農会を主宰し、みかん園一千町歩の開発を提唱し、自らも青柳浮亀と茅場の丘陵地を開いたのが三楽園である。昭和10年に温州みかん・ネーブル、2,200本を植え込んだ。田辺も興農の先駆者といえよう。
大内地区で特筆すべきことに、戦時中の七曲・尾伏地区の開拓がある。当時の町長・伊藤大痴(だいち)が、この地区の山林の開拓を計画し、農地開発営団の直営として入植を奨励した。いまでは広大なみかん園が広がる。東は茅場・藤川から尾伏・篠原、西は三光坊地区にかけ、一大みかん団地となり、川を越えて北杵築東部の筒木・鴨川一帯にも及んでいる。
奈狩江地区では、大正13年に、奈多の稙田平三が植えたのが初め。品質が良く、農林大臣賞を受けている。現在では、上地・気候の条件に恵まれ、大規模パイロット地区となっている。
八坂地区では、大正4年に、白水の宮本岩次が本庄の辻に、また、中村の長谷目律三もこの年に植え込んでいる。
しかし、現在の産地を築くきっかけとなったのは、戦後のことで、愛媛県から10戸の農家が、集団入植してからである。みかんブームとともに、地域農家のみかん作りに対する意欲にも刺激を与えた。
第二節 戦後の開拓と移住入植
杵築への県内外からの移住入植者の状況をみると、入植時期により違いがみられる。
昭和23年~26年。入植者は90戸で、主として海外(旧満州・朝鮮)からの引き揚げ者である。みかん栽培の経験は無く、野菜栽培からみかん栽培に転換した。
昭和23年、愛媛県伊方村の出身者で、旧満州荘河の漁業開拓村から引き揚げた矢野与平次・戒藤長年ら10人が篠原(三光坊)に入植した。収入の無い幼木時代は、スイカ・大根などの野菜栽培で生計を保ちながら開拓村を築きあげ、一人の落後者も無く、今日に至っている。
また、23年には、28戸が相原に入植したが、主として旧満州・朝鮮からの引き揚げ者で、そのほとんどが官庁・会社勤めであった。初め野菜を作っていたが、33年~35年にかけて離農者が増え、その跡地を愛媛・広島・徳島県からの入植者が購入、みかん園に転換した。
現在、柑橘農家の70戸は、県内18戸、愛媛14戸、徳島10戸、広島5戸のほか福岡・岡山・山口県などからの入植の人々である。ここ相原開拓地は、一集団100ヘクタールの柑橘園が一望に展開し、見事な集団産地を形成している。
昭和27年~29年。35戸入植。津久見・愛媛県南予地方の出身者が多い。分家的な存在の人が多く、資金とみかん栽培の技術を持っており、郷里からの応援・援助も受けていた。
昭和30年~35年。主としてみかん農家の二、三男対策として、愛媛・徳島・広島・県内から154戸が入植している。戦後の食糧不足時代をようやく脱け出し、果樹栽培に光が見え始めたころで、広い大地を求め、理想的な柑橘専業経営に挑戦した時代である。
新三光坊は、32年、農林省の新開拓営農第七類モデル地区の指定を受け、国が147ヘクタールの原野を買収し、翌年60ヘクタールの開墾に着手した。この開墾は、全国で初めての大型機械(ブルドーザー)による画期的なものであった。
また、34年4月には、柑橘振興のため愛媛県喜多郡から中村喜彦(広島県出身)を市の職員として迎え、柑橘栽培の技術指導にあたらせた。
開墾は34年に完了。入植者40戸を選定し、一戸当たり平均1.5ヘクタールを配分、翌35年にみかん苗木が植えられた。早くも36年には、一部でみかんの結実がみられた。入植者40戸は、地元20戸、愛媛県20戸で、いずれも20歳代の若者であった。
昭和36年以降には、93戸が入植しているが、農家の二、三男対策と併せて、郷里の樹園地や家屋敷を売却し、近代的な企業経営を目指す、一家ぐるみの入植が多くなった。
みかん栽培に希望が見出され始めたころの昭和34年11月、みかんの収穫を祝って、第一回きつきみかん祭りが催された。みかん祭りは一時中断されたこともあるが、47年11月からは杵築市産業祭に衣替えし、市民会館を中心に開催されていた。なお、平成4年の第20回産業祭からは、場所が杵築市健康福祉センターに変更されている。
第三節 「柑橘興市」
昭和35年1月、八坂善一郎市長は、「柑橘興市」-みかんを植えて杵築市を発展させよう-、と市内全農家に呼びかけ、杵築市柑橘振興五か年計画を公表した。この計画は、市が事業主体となって、40年までに1,000ヘクタールの樹園地を造成し、入植希望者に分譲しようというものである。
市が単独で樹園地造成事業を行うことは、前例がなく、難航したが、ようやく県の了解を得て、35年3月、特別事業として、杵築市樹園地造成代行事業を発足させた。三か年計画で500ヘクタールの柑橘園を造成することになり、守江地区で30ヘクタールの買収と開墾に着手、つづいて原北地区で12ヘクタールの買収と開墾にとりかかった。
翌36年2月、果樹農業振興特別措置法が、6月には農業基本法が公布され、同法にもとづいて、農業構造改善事業が打ち出された。政府は、日本経済の成長とともに果物類の需要増が予想されることから、果物類を成長作物の代表として取り上げ、その中でもみかんを農業生産の選択的拡大の主要品目に位置づけた。このため、みかんは農業構造改善事業の基幹作物として、九州はもちろん、中・四国地方でも大きく取り上げられた。
八坂市長の進める政策と、国の農業政策が一致したのである。市は直ちに農林省へ農業構造改善事業の認可を申請、37年9月認可を受けた。総事業費1億6,685万円。38年~40年の三か年間に90.3ヘクタールの柑橘園造成とオートメーション柑橘選果場などの建設である。県下では、杵築市のみが承認された。
農業構造改善事業の実施によって、市単独による樹園地造成事業は中止された。
昭和39年4月からは、奈狩江地区で県営開拓パイロット事業が着工された。この事業は、一集団60ヘクタール以上の団地確保が必要なため、狩宿から奈多にかけての丘陵地が選ばれた。事業の設計に入る前に、みかん団地経営の基本的な考え方がまとめられたが、それは全国的にも前例のない、近代的な農業生産法人による完全協業経営を目指すものであった。その柱は、次の二つである。
一、徹底した機械化体系による省力化経営を実現する
一、協業化による経営の合理化を図る
工事は、42年3月完成した。造園面積99ヘクタール、総事業費1億3,000万円で、みかんの植栽は三条の並木植えとした。
つづいて、第二次構造改善事業(昭和44年~57年)が実施され、総事業費2億3,200万円で、自立経営、経営規模拡大と生産性の高い中核的農家の育成などの補完的事業が行われた。
また、昭和53年以降は、新農業構造改善事業、平成2年からは、農業農村活性化農業構造改善事業、平成7年からは、地域農業基盤確立農業構造改善事業などの指定を受け、現在も事業を継続中である。
こうした積極的なみかん団地の造成によって、昭和40年には、当初計画の1,000ヘクタールを超え、1,098ヘクタールに達した。(表1)この年10月、1,000ヘクタール達成を記念して、八坂善一郎市長の業績を称える胸像が城山に建立された。
年度 | 栽培面積(ha) | 生産量(トン) |
昭和30 | 212 | 730 |
昭和35 | 506 | 1,870 |
昭和40 | 1,098 | 8,995 |
昭和45 | 1,623 | 24,100 |
昭和50 | 1,647 | 42,350 |
昭和55 | 1,421 | 38,490 |
昭和60 | 1,362 | 36,844 |
平成2 | 1,028 | 21,593 |
平成7 | 677 | 13,653 |
平成12 | 580 | 12,338 |
平成13 | 535 | 13,205 |
第四節 杵築みかんの生産と販売
昭和30年の市制施行時、みかんは栽培面積212ヘクタール、生産量730トンで、農作物収入中第6位であった。それが39年度には、面積946ヘクタール、生産量5,575トンに増え、米・麦につぎ第2位となった。さらに翌40年度はみかんが豊作で、その収入は米・麦を上回り、市の主要産物となるとともに、県下でも最大の産地に成長した。
ところが、40年代に入ると、みかんは全国的に生産過剰となり、43年には価格が暴落した。ついで47年も、大豊作によって価格が大きく落ち込み、みかん農家の受けた打撃は深刻であった。また、このころから輸入果実が増加し、柑橘類の消費は伸び悩んでいた。
みかん農家は、市と杵築市農協・杵築柑橘農協・杵築開拓柑橘生産組合で構成する杵築柑橘振興協会を中心に振興策を模索、53年に杵築市柑橘振興5か年計画(年次別更新計画)を作成した。それは、普通温州みかんの減反、ハウスみかんの増反、伊予柑・ネーブルなどの中晩柑の導入を進めるものであった。
具体的には、伊予柑・ネーブルの出荷終了後、ハウスみかん出荷まで空白となっている4月~5月の2か月を埋め、周年出荷体制を確立する。オイルショック後、停滞しているハウスみかんの現状打開、新品種による消費拡大をねらったものである。
計画によると、高接ぎや新植によって、南柑20号・青島などの新品種や中晩柑類への切り替えを積極的に進め、58年には、温州みかんの生産量を13,000トンに抑え、甘夏つるみ・宮内伊予柑・ネーブル・マーコット・アンコールなど、晩柑・雑柑類を8,800トン、ハウスみかんは省エネ対策などを講じて57年には20ヘクタールに増やすとしている。
周年出荷体制は、出荷時期に空白をつくらないよう、柑橘類の品種・系統を組み合せて栽培するもので、月別の出荷は次のようである。
9~10月 極早生みかん(大分系・宮本系)
11~12月 早生みかん(興津系・宮川系)
12~2月 普通温州(南柑20号系・青島系・大津4号系)
2~5月 中晩柑類(宮内伊予柑系・ボンカン系・ネーブルオレンジ系・マーコット系・アンコール系・天草系・甘夏系)
5~6月 早期ハウスみかん(宮川系)
7~9月 ハウスみかん(宮川系)
ハウスみかんは、県下では杵築が草分け。昭和47年に愛媛県吉田町からの入植者6戸が取り組んだのが初め。吉田町では、すでに栽培されていたが、管理方法や技術に確立されたものがなく、試行錯誤の連続であった。生産者と農協の果樹専門技術員の失敗を糧とする研究と努力の成果があって、翌年北九州・宇部・徳山の市場へ試みに出荷したみかんに、予想外の価格がついた。これを機にハウスみかん栽培の気運が盛り上がった。
わずか6戸で始めたハウスみかんは、50年は面積40アール、生産量20トンであったが、55年には120戸、23.5ヘクタール、1,482トンとなり、平成元年には252戸、59.6ヘクタール、3,161トンと飛躍的に伸びつづけた。同7年1月には、ハウスみかん販売額30億円突破記念大会が催されている。
年度 | 栽培農家(戸) | 面積(アール) | 販売数量(トン) | 販売金額(千円) |
昭和50 | 6 | 40 | 20 | 13,842 |
昭和53 | 48 | 1,048 | 509 | 319,494 |
昭和56 | 148 | 2,988 | 1,606 | 1,079,493 |
昭和59 | 169 | 3,425 | 2,098 | 1,414,492 |
昭和62 | 205 | 4,525 | 2,784 | 1,877,717 |
平成2 | 263 | 6,823 | 3,440 | 2,988,688 |
平成5 | 272 | 7,828 | 3,898 | 2,854,854 |
平成8 | 244 | 7,798 | 3,961 | 3,154,091 |
平成11 | 226 | 7,094 | 3,571 | 2,806,208 |
平成14 | 230 | 7,150 | 3,191 | 2,366,947 |
みかんのハウス栽培にとって、最も気をつかい、また労力をとられたのが温度管理である。このため、昭和61年に温度総合監視システムを導入し、みかん農家124戸、327棟のハウスを結び、電波を使って温度の集中管理を行うこととした。温度管理の省力化と適性化によって、品質の均一化をはかるもので、全国でも初めての試みだった。
平成7年度からは、農家の高齢化や後継者不足の解消をねらい、杵築市農業公社によるリース農園の事業も始まった。これも全国で初の試み。農林水産省も注目し、杵築をモデルにした農業経営育成生産システム確立事業を計画し、全国の24地区で実施した。
リース農園の第一号は、奈多団地の18棟で、5戸の参入者があった。ついで守江・狩宿・鴨川・八坂・原北と市内全域に広がり、平成12年度末には、71棟、参入戸数42戸になっている。参入者は平成8年に奈多団地に植えた中晩柑の新品種天草(愛称・美娘(みこ))が、10年12月初めて出荷されるなど、積極的に柑橘の品種改善につとめてきた。
杵築のハウスみかんは、今では全国的にも有名となり、東の蒲郡(愛知県)、西の杵築、と並び称され、高く評価されているが、そのあゆみ決して平担ではなかった。台風や積雪によるハウスの倒壊、オイルショックでは重油が確保できず、プロパンガスやノコクズでしのいだこともある。温度や水の管理に失敗、商品にならなかったこともある。こうした困難を克服して今日の地歩が築かれたのである。
ハウスだけでなく、露地みかんも天候による被害をうけ、農家は大きな損害を蒙ったこともたびたびであった。
(中略)
昭和33年杵築産みかんの生産量は、わずかに147.7トンであった。これに携わる組合は、総合農協6組合(杵築・守江・奈狩江・八坂・北杵築・西部)、開拓組合4組合(杵築・三光坊・相原・奈狩江)と専門組合の杵築柑橘組合の11組合であった。このうち杵築農協は、北浜に新農村振興事業で建設した新選果場があり、杵築柑橘組合は古い倉庫を借りて共同選果、荷造りをしていたが、他の組合は、農協の作業場を借りて、個人選果、共同出荷をする程度であった。
当時、みかんの先進地では、すでに大型の共同選果場をもち、果実の洗浄・ワックス処理などをして付加価値を高め、大市場に計画出荷していた。これでは先進地に対抗できないため、販売組織一元化の声があがり、34年8月、杵築市柑橘出荷連合会(杵柑連)が結成され、共同選果・共同出荷を進めることになった。
この年11月、杵築みかんの鉄道による東京神田市場向けの出荷が始まった。これより先、別府湾より船積みで大阪市場へ出荷し、予想以上の評価を得た上での決断であった。東京市場でも好評をうけ、取引きは関東一円に広がることになった。これを機に販売組織一元化が再燃し、36年8月開拓4組合が加入を決定、名実ともに全市一元の販売組織が確立された。
農業構造改善事業の実施に伴い、杵築市も事業実施指定を受ける条件として農協を合併することになり、6農協が合併して、38年1月杵築市農業協同組合(市農協)が誕生した。けれども、この合併に伴い杵柑連の改組の必要が生じ、杵築柑橘組合は杵柑連から脱退して、専門組合の杵築柑橘農業協同組合を設立した。
このころ、農業構造改善事業による杵築選果場の建設が急がれていた。市農協と開拓4組合は、杵築市柑橘出荷農業協同組合連合会(新杵柑連)を結成し、選果場建設に着工、40年10月、県下初のオートメーション選果場が完成した。杵築柑橘農協も翌41年に選果場を建設している。
昭和47年3月、県内の開拓組合で組織する大分県開拓農協連合会が改組され、大分県開拓農業協同組合として県単一農協となった。このため、杵築・三光坊・奈狩江の3開拓組合は解散、相原開拓組合は市農協に加入することになり、48年8月、新杵柑連も解散のやむなきに至った。
解散した3開拓組合の組合員は、個人加入として大分県開拓組合に属していたが、新杵柑連の解散に伴って、農事組合法人・杵築開拓開拓柑橘生産組合を結成し、選果場の建設に着手した。選果場はこの年10月に竣工、選果販売事業を始めた。
杵築みかんの販売組織一元化は、紆余曲折の歴史をたどり、柑橘農家を支える組織は離合集散を繰り返したが、今は杵築市農業協同組合・杵築柑橘農業協同組合の2組織となっている。
昭和40年以降、温州みかんは全国的に生産過剰時代に入った。杵築市では高級柑橘類(ハウスみかん・高糖度系温州・中晩柑類・外国産柑橘類)への高接ぎ、改植を進め、杵築みかんの崩壊を防いできたが、平成2年以降は、日本経済の不振がつづき、デフレによる経済不安から国民の消費意欲が減退し、価格破壊が進んでいた。このような中で、みかん農家は、高齢化や離農が進み、生産意欲も減退しつつあった。
こうした状況に対応するため、杵築市農協、くにさき農協の2団体で、平成13年4月、おおいた中央柑橘園芸農業協同組合連合会(組合長・阿部典郎JA杵築組合長)を結成し、国東半島一帯の柑橘生産者が一体となって、共同選果・共同出荷・共同販売にあたり、21世紀に生き残ることを図った。平成14年3月、ロボットを導入した最新式の広域選果場と低温貯蔵庫が完成した。設備・機能性ともに全国最先端レベルのもので、県内生産量の約半分以上の取り扱いが可能となった。
国東半島一帯でみかんの新植が盛んに行われていたころの昭和41年6月、将来の生産量急増に備え、国東半島で生産されるみかんの共同出荷で一元化しようと、社団法人・国東半島オレンジセンター協会が設立された。
センターは、国鉄杵築駅裏の旧国東鉄道の駅舎と鉄道線路を買収、みかん積み出し専用貨物の引き込み線と積み込み場を設け、この年の10月から京浜・阪神の市場へ向けてみかん列車を走らせることにした。
(中略)
52年からは、全国初のコンテナによるみかん輸送が始まった。センターからの強い要請によるもので、杵築-東京間直行、しかも所要時間は従前の約半分の24時間に短縮され、輸送コストが大幅に削減された。
杵築におけるみかん加工事業も、八坂善一郎市長の提唱による。昭和34年、「今後、杵築みかんは青果だけでなく、加工品で販売する必要が生じる」として、みかん缶詰工場の誘致を図った。当時、杵築市は新産業都市建設構想の一角にあり、守江湾の大規模な埋め立て計画構想が進められ、杵築市工場誘致条例も制定されていた。
昭和35年9月、工場誘致条例適用第1号として、あけぼの産業株式会社杵築工場が操業を始めた。あけぼの産業は本社を下関市におく。仲町の秋津屋酒造場跡を仮工場としての操業だったが、翌36年10月、野添に新工場を建設して移転、みかん・くり・たけのこ・赤貝などの缶詰や冷凍品の製造を始めた。
ついでに40年には、大分県果実農業協同組合連合会(大分県果実連)と九州食糧品株式会社の合弁による東九州協同食品株式会社が設立され、本庄にあった澱粉工場の跡地で、みかんや水産物の缶詰・びん詰の製造を始めている。
43年は、みかんが大豊作。市場はみかんの滞貨の山、天候不順もあって、品質の低下、腐敗が続出、価格が大暴落した。農林省も45年にみかん加工需要拡大緊急対策事業を実施、大型果汁工場の建設を勧めた。
大分県果実連は、これに呼応して、みかんの周年消費を企画し、県と一体となって果実工場を建設することにし、東九州協同食品を買収して47年1月に着工した。同年11月、総工費18億円、最新式のアメリカ製搾汁設備、ドイツ製遠心分離機・イギリス製濃縮設備をもつ大分県果実連杵築工場が完成、ぶんごオレンジジュースの製造が始められた。
(中略)
創業に入った47年産みかんも、全国的に大豊作。価格暴落に苦慮する生産者は、ジュース工場に期待を抱いた。この年のみかん処理量は、当初計画を大幅に上回り、16,000トンに及んだ。
49年に開発した砂のう入り飲料(つぶ入りジュース)が大ヒット。この年から学校給食にも供給が始まり、県内はもとより大阪・名古屋にも移出、51年からは中近東へも輸出された。オレンジジュースのほか、ブドウ果汁・コーヒー飲料なども手がけ、製造額は820万ケース、94億円にものぼったことがある。
だが、経営状況は順風だったわけではない。数次にわたる工場施設の増設が経営を圧迫、再建計画を重ねて漸く軌道に乗せ、平成3年12月、県農協連合会の組織の再編成に伴い、農協組織から独立して、株式会社ジェイエイフーズおおいた、として新発足、今日に至っている。
(中略)
近年、消費者のニーズや嗜好の変化に伴い、みかんは食味・香りを求められる時代となってきた。ハウスみかんのまろやかな味に慣れ、高糖度のみかんが求められており、露地ものはその対応に苦慮している。みかんの糖度を高めるため、ビニールを敷きつめ、雨水をシャットアウトするマルチ栽培など、さまざまな栽培法が試みられている。また、市農協では、糖度13度、10アール当り3トンの収量、単価300円を目標に、13・3・3運動を展開するなど、みかんの高品質化を図っている。
高品質で消費者ニーズにあったものは、それなりの価格で販売できる。昭和55年10月、市農協の出荷した早生温州みかんが、東京神田の青果市場で、1ケース(15キロ)1万円の高値で取り引きされている。また、平成5年4月の大分市中央卸売市場での、ハウスみかんの初せりでは、御祝儀相場ではあるが、5キロ詰めに10万円の値がついている。前年が7万円だったことからみれば、異例な高値といえよう。しかし、今日ハウスみかんの値段はピーク時に比べてやや下向気味であり、杵築みかんは、今新たな対応を求められている。
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更新日:2020年08月14日