杵築ブランドサイドストーリー#02「きつき茶」

(杵築市誌(平成17年(2005年)3月発行)より抜粋)

第七編 産業経済

第四章 特産物

第一節 きつき茶

杵築における茶の栽培の歴史は古い。『追遠拾遺』によれば、寛文年間(1661~72)のころ、松平英親が家臣に命じて、宇治から茶の種子を買ってこさせ、馬場尾口と来浦の寺山(国東町)に茶園を開かせたのが初めとされる。茶の成育がまずまずだったので、宇治から上林某を招いて、茶の製造法を指導させ、領内に栽培を奨励した。

「町役所日記」の寛政5年(1793)4月10日の「お触れ」によると、蠟(ろう)・漆(うるし)・紙・茶などの需要が増加し、価格も上昇しているので、荒地・原野・空地を利用して増植し、領内の産出高をあげるように、と指示している。このため、畑の境界、農道ぞいや山裾などの空地に茶が植えられ、家中・町方でも、自家用の茶をまかなえるようになった。

明治3年(1870)3月には、製茶が始められ、一番茶を多く出荷するようにと勧め、時価相場で生葉を購入している。

(中略)

昭和21年(1946)3月、朝鮮から引き揚げ、北杵築で医院を開業した松山意佐美(福島県出身)は、北杵築の山間部で昔から良質の茶ができることを知った。松山は、地域の特産にしようと、往診の途次などのあらゆる機会をとらえて、住民に茶の栽培を呼びかけ、昭和31年、賛同者を得て茶業組合を結成した。

ところが、たまたま鹿児島から届いた新聞記事で紅茶栽培が有利なことを知り、紅茶栽培についても研究を始めた。また、県を通じ、農林省東海近畿農業試験場茶業部長加藤博に、現地調査を依頼した結果、紅茶栽培に最適との報告を得た。県はこの報告をもとに、昭和32年、農林省の紅茶振興計画にもとづき、100ヘクタールの茶園造成を企画し、杵築市40ヘクタール・坂ノ市町(大分市)60ヘクタールを指定地区に選んだ。

杵築市では、松山が中心となって進められた。まず鹿児島からアッサム種の実生を導入し播種させた。茶業組合も紅茶組合(組合員100名)に改めた。また苗木の自給化を図るため、中ノ原の松山の土地に、組合事業で育苗園を設け、紅茶品種の穂木を導入して、40万本の挿木を行ったほか、原種園・母樹園40アールを設置して穂木の確保に努めた。

これとは別に、市議会議員で農業委員でもあった松山は、40ヘクタールの茶園を確保するため、尾上・松村の山林・原野を農林省の開拓事業で収用、18名の組合員を入植させ、北杵築開拓農業協同組合を設立した。

しかし、資金不足に加えて、実績のない作物のため、入植者は意欲に欠け(中略)、離脱する者が相次ぎ、昭和34年には組合員は50名に半減し、茶園面積も4.7ヘクタールとなり、組合は崩壊寸前になった。

ふみ留まった組合員は、県や市に依頼して、昭和35年先進地の鹿児島から技術指導員として永留忠男を迎え、市職員として指導普及にあたらせた。なお、従来の紅茶組合も発展解消させ、杵築市紅茶組合を組織するなど、積極的に取り組んだ。

こうした努力は、共鳴者を呼び、37年には、茶園は16ヘクタール、組合員も120名に増加している。この年、旧北杵築中学校校舎の払い下げを受けて、製茶工場に改造、38年には杵築市で初めての紅茶が生産された。加工については、静岡市の日本紅茶株式会社の指導を受け、製品も同社と取り引きすることにした。

こうした努力の甲斐があって39年、埼玉県で催された全国茶品評会では、早くも一等三席の上位に入賞し、大きく気をはいた。さらに翌40年10月、静岡市で開かれた全国茶品評会では、一等一席・農林大臣賞を受賞、優勝旗も獲得して、杵築紅茶の名を全国に広めた。

苦難と試行錯誤の4か年だったが、、関係者の努力が大きな実を結んだのである。組合は、39年3月、社員80人の杵築紅茶有限会社となり、社長に松山意佐美が就任、緑茶工場も併設して価格変動に備えた。

このころの生産高は、茶園24ヘクタール、生茶で2万キロ、製茶で3,000キロ、製品のほとんどは日本紅茶株式会社に販売し、輸入紅茶とブレンドして、「日の丸紅茶」の名で販売された。

しかし、杵築紅茶の名声も長くはつづかなかった。早くも38年には、紅茶の輸入自由化、関税撤廃が世界貿易機構で決定された。これを機に我国にも紅茶の輸入攻勢が強まり、国産紅茶の価格は次第に下落し、ついに農林省は43年に国産紅茶の生産中止を発表、緑茶への転換を勧めた。杵築紅茶もそのあおりを受け、45年(1970)ごろまでに生産が途絶えた。

杵築紅茶がようやく緒につき始めた折の、生産転換である。生産者の受けた衝撃は、余りにも大きかったが、失意の中にも力強い動きがあった。

41年に大片平地区で共同の、42年に尾上地区で個人の製茶工場が建設され、同42年から緑茶の製造が始められた。しかし原料が紅茶品種であったため、渋味が強く、製造技術も未熟なため安値での取引きではあったが、両工場に寄せる生産者の期待は大きく、これを機に緑茶への転換が急速に進み、45年ごろには、ほぼ転換されている。さらに45年からは、稲作の減反政策が実施され、転換作物が実施され、転換作物に緑茶栽培を始める農家も増えてきた。

また、昭和39年ごろからは、高度経済成長もあって、国内の緑茶需要が急増、41年には空前の荒茶価格を記録するなど、緑茶ブームを招いた。

市は各種事業で、茶園の団地化を進めながら、優良品種への改植を奨励し、本格的な緑茶生産を目指した。生葉の品質向上のため、「栽培暦」を配布し、手入れの時期や方法など、栽培管理の徹底を図った。

生産者と栽培面積が増加するにつれ、加工・販売の一元化を図る必要が生じ、生産者は46年に、国の地域特産特別対策事業の指定を受け、農事組合法人杵築市茶生産組合を結成した。翌47年には、大片平・尾上の製茶工場を買収して、新たに大片平地区に大型製茶工場を建設して、組織の一本化を目指した。

生葉の生産と一次加工、という当時の常識を破り、生葉生産から流通までの一貫体制をねらったのが、きつき茶の特徴でもある。銘柄確立をはじめ、製品の均質化、包装、販路の拡張は、慣れないだけに困難を極めたが、49年には、大分空港、大分市内のデパートで売られるようになった。ついで翌51年には、銘柄化されてきた「きつき茶」と組合の躍進をめざして、きつき茶業協同組合に改組した。

組合員は、生葉を組合に持ち込み、加工・販売を委託し、製品の販売実績に応じて精算する仕組みにし、北浜の市農協の敷地の一角に茶業センターを発足させた。また、生葉の生産増にたいして、尾上・中津屋地区にも製茶工場を新設、量産体制を整えた。

きつき茶の販売は順調に伸び、55年には大分市内のデパートだけで1億円を超え、この年一村一品の農業部門で、他の模範として優秀賞に輝いた。組合員はもとより歴代組合長をはじめとする役職員の努力もあり56年の生産量は90トン、販売額2億円、茶園は72ヘクタールとなり、県下で最大の茶生産地となった。販路も東京・大阪・名古屋・福岡方面などと幅広く、きつき茶の名は全国的に知られている。

昭和50年代に入ってからは、生葉の生産にも改良が加えられ、新芽を遮光幕で覆って栽培するかぶせ茶がつくられている。かぶせ茶は、新芽の出た茶園を黒色の寒冷紗で一定期間覆い、日光を遮断して栽培する方法で、玉露と露地栽培の煎茶との中間的存在。葉が柔らかく鮮やかな色となり、甘みが出る。煎茶と違った独特の香りがある。収益性が高く市場での売り上げが伸びたことから、55年には、栽培農家60戸、面積3ヘクタールに増えている。

また、61年からは、全国で初めての生葉を洗って加工する洗浄加工茶を売り出し、注目を集めた。

ところが、生産者の高齢化や後継者難は、製茶工場の労働力不足や工場間での製品のバラツキを生じ、新たな対応が求められていた折、県道大田杵築線のバイパス工事で尾上工場が立ち退くことになった。これを機に、平成8年、杵築市農業公社が3工場を統合して、オートメーションシステムの大型工場を尾上地区に建設した。生葉の等級付けや加工中の水分の管理制御などのすべての工程をコンピュータで処理する全自動の生産ラインを2つもち、1日に約20トンの生葉を荒茶に加工できる。労力は3工場体制に比べて、約9分の1に軽減された。

茶業協同組合は、販売力を強め、経営の安定化を図るため、平成9年10月、市農協と合併。茶の生産を一層振興するため、JA杵築市(杵築市農協)茶研究会(会員72人)を組織した。

ところで、生活様式の変化と飲料への好みが多様化するなかで、若者層を中心に「お茶ばなれ」が進んでいるが、一方では健康飲料としての茶の効果が認められ愛飲者が増えている。しかし、茶の1戸当りの購入量は、最高時の8割に減っており、健康飲料としての消費拡大が望まれている。

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更新日:2020年08月18日