杵築ブランドサイドストーリー#03「杵築銘酒」

(杵築市誌(平成17年(2005年)3月発行)より抜粋)

第七編 産業経済

第四章 特産物

第六節 杵築銘酒

福岡藩の儒者・貝原益軒は、元禄7年(1694)4月、木付城下に入ったが、その時の木付の様子を『豊国紀行』に、「木付は東北に海有。近し。入海有。城跡有。此地海魚甚多し。美酒あり。」と記している。(中略)

藩政時代の酒屋は、町方で「大家」と呼ばれる人々の中に多かった。酒造は多額の資金を必要としたからである。大家は多くの蔵子や店員を使い、米を買い付けて酒を造る。また公金を預かって、金融業もやっていたし、税額も町の最上位にあった。藩の「御用金」を献上したり、新田開発や、貧困者の救済なども行った。財力を背景にした、公使にわたる実績により、かれらは町役人にも起用された。酒屋の親方は、政治・経済の両面にわたる城下町の支配者だったのである。

酒屋を営むには「酒株」が必要である。酒株の許可を受けるには「御礼銀」を必要としたが、株数に制限があるから、いつでも手に入れることはできない。酒株は「願届」を提出すれば、他人に譲渡できるから、酒造を希望するものは、「休株」を買う方が手っ取り早い。新規株も時によっては入手できた。

(中略)

明治以降も銘酒が生まれ、他地域にも誇れる地酒が造られていた。ところが、太平洋戦争中の昭和18年(1943)度酒造年より、酒造企業の整備が行われた。当時、杵築町を中心とする町村には、「智恵の井」の高橋弘吉商店、「酒の井」の高橋豊商店、「宝美人」(西灘)の池田屋(吉見栄造)商店、「油布」の秋津屋(吉田春男)商店、「智恵美人」の鳳(中野庫治)商店、「豊栄」の丸木屋商店などがあったが、日出税務署管内で引き続き営業を認められたのは、日出の成清信愛(的山)、杵築の高橋弘吉、中山香の小野喜一郎の三酒造場のみであった。これとは別に高橋豊商店が、酒造器具保有酒造場に指定され、いつでも再開できる体制を整えたが、他の酒造場は酒造器具を総て政府に買い上げられ、廃業となった。

戦後の昭和22年、廃業していた速見郡内の酒造業者は、秋津屋で会合を開き、「速見酒造」の名で共同による酒造を再開、「初娘」の名で販売を始めた。23年には、中野(鳳)・吉見・森本商店が速見酒造から独立して酒の製造を、つづいて二階堂・佐藤商店も離脱して焼酎の製造を始めた。

21年に独自で酒造を再開した高橋豊商店は30年に廃業、37年には、吉見・森本商店も自由競争の荒波にのまれて姿を消した。このころ速見酒造も解散せざるを得ない状況にあった。戦時中も酒造を続けていた高橋弘吉商店も、ついに42年にのれんを降ろし、残るは中野庫治商店のみとなった。現在は中野酒造有限会社ののれんで「智恵美人」をはじめとする清酒を造っている。平成12年には全国進取鑑評会の大吟醸の部で金賞を受賞し人気も高まっている。

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更新日:2020年08月18日